20.「あの子はうまいのに、うちの子は……」と感じたときに ― 育成年代の”成長スピード”について考える ―

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導入|土曜の試合で、つい比べてしまう瞬間

土曜の朝、子どもの試合を見ていると、ふと目に入ってくる「あの子」がいます。

ボールを持てば相手をかわし、シュートも決める。チームの中で、ひとり頭ひとつ抜けている存在。

そして、その姿を見ながら、心のどこかでこう思ってしまう。

「あの子は本当にうまいな。それに比べて、うちの子は……」

これは、私が保護者の方とお話しする中でも、よく耳にする感覚です。そして、それはとても自然なことだと思います。子どものことを真剣に見ているからこそ、他の子との差が目に入る。我が子の成長を願っているからこそ、つい誰かと比べてしまう。

ただ、今日はその「比較」について、少し違う角度から考えてみたいと思います。

比較してしまうのは、悪いことではない

まず最初にお伝えしたいのは、「比較してしまう自分」を責めなくていい、ということです。

人は何かを評価するとき、必ず基準を必要とします。我が子のプレーを見て「うまい」「まだまだ」と感じるとき、その基準になっているのは、たいてい「同じ年代の、他の子どもたち」です。

特に育成年代は、毎週のように試合があり、毎週のように「他の子」のプレーを目にする環境です。比較が生まれやすいのは、ある意味で当然のことだと思います。

問題は、比較すること自体ではなく、その比較から、どんな結論を導いてしまうか、だと私は思っています。

「あの子」を見ているのは、親だけではありません

ここで、もう一つ大切な視点を加えたいと思います。

「あの子はうまいのに……」と感じているのは、実はピッチの外にいる親だけではありません。ピッチの中にいる子ども自身も、同じことを感じています。

「Aくんはドリブルがうまいな」「自分はあんなふうにできない」「Bさんみたいにシュートが決められたらいいのに」——子どもたちは、驚くほど早い時期から、周りの子と自分を比べています。これは、誰かに教えられたわけではなく、子ども自身の中から自然に出てくる感覚です。

そしてもう一つ。子どもは、親の反応にもとても敏感です。

試合の帰り道、親が「Aくんは今日もすごかったね」と何気なく口にする。それ自体は、Aくん本人への称賛のつもりかもしれません。でも、隣で聞いている我が子には、「自分は今日、何も言われなかったな」という空気として伝わることがあります。

つまり、「比較」は、親の心の中だけで起きているわけではありません。子ども自身の中でも、そして親子の間でも、静かに積み重なっていくものなのです。

だからこそ、この先の話は、親自身の考え方だけでなく、子ども自身が抱えている悩みにも、そのまま当てはまるものだと思って読んでいただけたらと思います。

私が見てきた「その後」|トレセンに選ばれた子と、選ばれなかった子

ここで、私自身のサッカー人生で見てきた話を少しさせてください。

小学生の頃、地域の選抜やナショナルトレセンに選ばれる選手たちがいました。当時のその子たちは、間違いなく「うまい子」でした。ドリブルも、シュートも、周りより一歩も二歩も先を行っていた。

ただ、その後を長く見ていくと、必ずしも全員がそのまま伸び続けたわけではありません。中学、高校と進むにつれて、いつの間にか名前を聞かなくなった選手も少なくありませんでした。体の成長のスピードに差が出たり、周りに技術的に追いつかれたり、あるいはサッカーへの熱量そのものが変わってしまったり——理由はさまざまです。

一方で、その逆もたくさん見てきました。

小学生の頃はそれほど目立つ存在ではなく、地域の選抜にも縁がなかった選手が、高校、そして大学に入ってから急激に伸びて、最終的にプロの世界に進んでいく。いわゆる「遅咲き」の選手たちです。

この両方を間近で見てきて、強く感じることがあります。

「今、うまいかどうか」と「将来、どこまで伸びるか」は、必ずしも一致しない。

成長のスピードや、ピークが来るタイミングは、本当に人それぞれです。早く伸びる子もいれば、ゆっくり、でも長く伸び続ける子もいる。小学生の時点での「差」は、その時点でのスナップショットでしかなく、その子の未来を決めるものではないのだと思います。

比較するなら、もっと大きな視点で|日本とニュージーランドの「違い」

もう一つ、別の視点から「比較」について考えてみたいと思います。

もし本気で「比較」をするのであれば、個人と個人ではなく、国と国を比較してみると面白いものが見えてきます。

私はこれまで、日本とニュージーランド、両方の育成年代の現場を見てきました。正直に言うと、技術的な部分——ボールタッチ、ドリブル、止める・蹴るといった基礎技術——において、同じ年代で比べると、日本の子どもたちの方が明らかに進んでいるケースが多いです。

これは、これまでの記事でも触れてきたように、日本には小さい頃から技術練習に重きを置く文化があり、専門のスクールも数多く存在するからです。一方でニュージーランドは、もっと「遊び」や「ゲーム」を中心に、複数のスポーツを並行して経験する文化が根づいています。

つまり、この時点で日本の子とNZの子を比べたら、「違い」は確かに存在します。

そしてこれは何も日本が優れているという話ではなく、視点をヨーロッパや南米に比べたらまた多くの違いを発見できると思います。

大人になると、その「差」はどうなるのか

ただ、ここで終わらないのが、この話の面白いところです。

この「差」は、大人になるまでそのまま続くわけではありません。むしろ、年齢が上がるにつれて少しずつ縮まり、やがてほとんど見えなくなっていきます。

なぜか。

ニュージーランドの子どもたちは、育成年代の後半になってから、フィジカルの強さや、複数競技で培った身体能力、大きなピッチでの強度への慣れを急速に発揮し始めます。一方で、技術的に進んでいた日本の子どもたちも、その技術を「より速く、より強い相手に対して、試合の中で」使えるかどうかという、新しい課題に向き合うことになります。

結果として、シニア年代になる頃には、「どちらが上手いか」という単純な比較は、あまり意味を持たなくなっていきます。それぞれの国の育成が、それぞれのタイミングで、それぞれの強みを伸ばしてきた結果だからです。

育て方が違えば、伸びるタイミングも、伸び方も違う。

これは、個人間の比較にもそのまま当てはまる話だと思います。

「比較」から「観察」へ

ここまで、二つの話をしてきました。

  • 個人レベルで見ても、成長のスピードはそれぞれ違う
  • 国レベルで見ても、育ち方が違えば、ある時点の「差」は時間とともに変わっていく

この二つから言えることは、シンプルです。

ある一時点での「他者との差」は、思っているよりずっと、不確かなものだということ。

だとすれば、私たちが本当に見るべきものは何でしょうか。

私は、それは「あの子」ではなく、「半年前のうちの子」だと思っています。

半年前と比べて、トラップが落ち着いてきた。半年前は怖がっていたコンタクトプレーに、今は自分から行けるようになった。半年前は下を向いてプレーしていたけれど、今は周りを見られるようになってきた。

こうした変化は、「あの子」と比べていては、絶対に見えてきません。比較の対象を「他人」から「過去の我が子」に変えたとき、初めて見えてくるものです。

子どもにも、同じ視点を渡してあげる

ここまでの話は、親であるあなた自身の「比較癖」と向き合うための話でした。ただ、この視点は、お子さん自身にもそのまま渡せるものだと思っています。

子どもが「Aくんはうまいから、自分はダメだ」というようなことを口にしたとき、つい「そんなことないよ、頑張ってるよ」と励ましたくなります。それも一つの優しさですが、子どもからすると「分かってもらえていない」と感じてしまうこともあります。

そんなときに、こんな聞き方ができるかもしれません。

「Aくんと比べてどうかは、正直わからないよね。でも、半年前の自分と比べたら、どう?」

この問いかけは、子ども自身に「比較の対象を変える」きっかけを与えます。他人という、自分でコントロールできない基準ではなく、過去の自分という、確かに変化してきた基準に目を向けるための問いです。

この視点を、子どもが小さいうちから少しずつ持てるようになると——それは、サッカーだけでなく、これから先の人生のさまざまな場面で、その子を支える考え方になっていくはずです。

まとめ|成長のスピードは、誰にも分からない

「あの子はうまいのに、うちの子は……」

この言葉が浮かんだとき、それは、お子さんのことを真剣に見ているサインです。その気持ち自体は、決して悪いものではありません。

そして、もしかしたら、お子さん自身も、似たようなことを心の中で感じているかもしれません。

ただ、その「差」が、5年後、10年後にどんな意味を持つのかは、誰にも分かりません。私自身、サッカーを通じて、その「分からなさ」を何度も目の当たりにしてきました。

早く咲く子もいれば、ゆっくり咲く子もいる。育つ環境が違えば、伸びるタイミングも変わります。

だから、もし「比較」したくなったときは——それが自分自身の中であっても、お子さんとの会話の中であっても——対象を少しだけ変えてみてください。「あの子」ではなく、「半年前の自分」と。

その視点の中に、お子さんが本当に進んでいる道のりが、きっと見えてくると思います。

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