バルサキャンプから考えた育成の構造について|ロジックと本能は矛盾しないのか。

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クライストチャーチで行われたFC Barcelonaのキャンプ

今回、クライストチャーチで行われたバルサキャンプにコーチとして参加してきました。自分が小さい頃から応援してきたバルサのキャンプにコーチとして関わる仕事のオファー、Glocalのコーチとしてもスペインのサッカーを学べるこの上ない機会と思い、二つ返事で参加してきました。

その中で多くの学びや発見があったので、個人的な振り返りも含め、Glocalとして伝えたいことを深掘りしていきたいと思います。

今回のキャンプについて

前提として今回のキャンプについて簡単に共有させてもらいます。

今回のキャンプはスペインのFC Barcelonaのキャンプでニュージーランドやオーストラリアでおこわれるうちの、クライストチャーチの回に参加してきました。(バルサキャンプは世界中で行われています。)

ヘルプなどではなく、10−15人の子供を一人で担当するコーチとして参加してきました。そして僕を含め4人のコーチを束ねるバルサコーチがついて、全体をマネージメントしたりフィードバックを選手や僕らコーチにしていました。

このキャンプのユニークだった点は、バルサコーチ以外のコーチもスペイン人やイタリア人が多かったことです。もちろん彼らも英語を話しますが、彼ら同士のコミュニケーションはスペイン語です。現場ではかなりのボリュームでスペイン語が飛び交っており、コーチとして参加する僕にとっても、NZでプレーする子供達にとっても異文化の環境でプレーする貴重な機会だったと思います。

バルサメソッドの本質|すべてが深く言語化されていた

中身については触れませんが、さすが世界最大級のアカデミーであるバルサアカデミーのメソッドは内容がかなり言語化されており、とても勉強になりました。全ての練習やプレーに意図や目的があり、それをコーチが選手に説明できるように言語化されています。もっと言えばバルサメソッドとして共有されやすいように、言葉が統一されていることが印象的でした。

(例えば、ボールを奪いに行くことはNZではWin the ball と言いますが、バルサではRecover the ballで統一されており、その理由もバルサがボールを保持したいことが前提にあり、そこから紐付けて考えられていました。)

内容を上げればキリが無いですが、とにかくここで伝えておきたいことは、サッカーがメソッドとして体系的に整理・言語化されていたことです。

ロジカルであることの利点

では、ここで一つ考えたいことは「言語化することの利点は何か」です。

サッカーという競技は同じシチュエーションは二度と無いと言えるほど、不確実性が高くカオスな競技です。だからこそ何が起きるか分からず、なにが正解かわかりません。故に、戦い方や勝敗に及ぼす影響や起因には限りがありません。

こうしたドラマ性や芸術性たるものがサッカー、いやfútbolの魅力であると言えます。

そんなサッカーにおいてロジカルであることは一体どういうことなのでしょうか。

再現性

一つは再現性だと思います。
先に同じシチュエーションは二度とないと言いましたが、似たような状況は幾度となく訪れます。次に起こる似たような状況でより良いプレーをするためには、前にミスした状況を理解する必要があります。
理解するために言語化つまりロジカルな考え方が必要であると考えます。

共有可能性

次に共有可能性があります。サッカーは11人でプレーする競技であり、考えを伝える作業がとても大切になります。要するにプレーを説明できる力は、コーチだけでなく選手にも求められてきます。
また、世界で展開されているバルサアカデミーならではだと思いますが、例えコーチが違くても同じメソッドや思想を共有する必要があります。その際に、言語化がされていると、同じ共有がされやすいのかと考えます。

ここで一つ、前提としてお伝えしておきたいこと

これから書く内容は、日本の育成環境を否定したり、西洋の育成を理想化したりする意図はありません。

あくまで、それぞれの育成文化が持つ「前提構造の違い」を整理しようとするものです。

どちらが正しいかではなく、なぜ違いが生まれ、その違いがピッチ上にどう表れるのか。

そこを考えることが、今回の振り返りの目的です。

あくまで構造的な違いからの考察であることをもう一度強調させてください。

言語化は選手を縛るためではなく、自由にするためのもの

サッカーにおいて自由とは何か。
それは「選べること」だと僕は考えます。

「はい、じゃあ好きにプレーして」と言われると逆に難しいのがサッカーです。

・いま何が起きているかを把握して
・選択肢を複数持っていて
・その中から選べる

こうした状況になると、自由にプレーしやすくなります。
言語化(ロジカルであること)は、この状況を作り出すことに役立ちます。

一見、「言語化されている=縛りがある」というイメージがあるかもしれません。

しかし実際には違います。

メソッドが言語化されていると、

・何を優先するのか

・何が良い判断なのか

・何が改善点なのか

こうしたことがクリアになり、より選択がしやすくなり、自由にプレーすることができます。

もちろんこれはスペインのバルサの考え方であり、南米やアジア、アフリカでは違った考え方をするかもしれません。ただ、僕はこの考え方にとても近いし、Glocalとしても言語化はどんどん取り入れていきたい要素で学びがとても多かったです。

(「考え方が国によって違うことは当たり前でそれがピッチ上に現れるのがサッカーの面白み」、という僕の大前提の考えで、僕がずっと探求していることということは一度ここで言わせてください。)

スペイン人・イタリア人コーチの“振る舞い”

バルサコーチ含め、他のスペイン人・イタリア人コーチの指導は印象的でした。隣でコーチしていても引き込まれる様な「迫力」がそこにありました。

ここでは彼らの振る舞いを”本能的な振る舞い”として一言にまとめたいと思います。

スペイン語のインテンシティ

バルサキャンプで3番目くらいに印象的かつみんなにとて新鮮だったのは、スペイン語でのコミュニケーションだと思います。コーチとして参加していてもスペイン語を浴びる量はかなり多かったです。

なぜなのかは分からないのですが、スペイン語での会話はとても迫力がありました。

テンポなのか、リズムなのか、アクセントなのか。なにがそうさせるのか分かりませんが、声のボリューム以外の要因がある様に感じました(実際に声のボリュームも大きいです)。

ここに関しては言語学的なことでよく分からないし長くなりそうなので、ここら辺にします。

「迫力=感情的」ではなかった

日本では迫力や緊張感のあるコーチングが飛び交う時には、感情的になっていることが多いイメージがあります。しかし、彼らはそれをナチュラルにやっていました。心は冷静に、振る舞いは情熱的という表現でしょうか。

怒っているわけではなく、それでいて迫力のあるコーチングは日本人の僕にとって学ぶべきものが多かったです。

言葉だけでなく、全身を使った彼らのコミュニケーションはとても印象的でした。

声量・距離・視線・身体の使い方

バルサメソッドではそうしたコミュニケーションの取り方もメソッドとして体系化されていました。もちろんその中でなにを選択して伝えるかはコーチの自由です。

ここでもコーチが自由に指導をするために、コミュニケーションの言語化がされていました。

実際にバルサコーチからは、トレーニングメニュー以外にもこうしたコミュニケーションやコーチングの研究をシェアしてもらったり、議論をする機会がありとても有意義な時間でした。

ロジック × 本能は矛盾しない

深掘りしていきたい部分はここからです。
ロジックと本能、これらは矛盾している言葉に思えます。しかしそうではない現場がありました。

深く言語化されているからこそ、迷いなく振る舞える

先に述べた通り、「言語化は選択をしやすくしてより自由にする」と考えます。ここでも同じ理屈で、バルサメソッドでは深く言語化されているからこそ、それを学んだコーチがより迷いなく振る舞えることを可能にしているのだと思いました。

この迷いのない振る舞いが、本能的にも見える迫力のある振る舞いを生み出しているのだと。

ロジックがあるから感情は暴走しない

ここも重要で、アカデミーとして大きな組織であるバルサでは感情的になって暴力やハラスメントの問題を起こすわけにはいきません(感情的になることが悪いことだと言いたいわけではありません)。

そこでメソッドとして体系化することで、感情の暴走を抑制しつつ、論理的に理解することで感情の解放を促しているのではないかと考えます。

理性か本能か

理性か本能かという二元論ではなく、両方が同時に存在していた。僕がキャンプで感じたことはそう表現することが正しいように思います。

なぜ日本・NZではこの両立が起きにくいのか

では果たして、なぜ日本で育った僕がいわゆるスペイン式のサッカーや指導方を新鮮に感じたのか。それは日本では起きにくい構造的な要因があると考えます。

空気を読む文化

学校の教室で、空気によっては挙手をしやすかったり、そうでなかったり。
今日のコーチは機嫌が悪そうだから、あまり怒らなれないようにプレーしよう。

何かと日本では空気を読むシーンが多くあります。

日本の「空気を読む文化」は、なぜ育成現場で力を弱めてしまうのか

日本には空気を読む文化があります。これは他の国を経験すると気がつきますが、日本独特の文化でもあり、日本人特有の武器でもあります。

日本で言う「空気を読む」は、相手の感情を読むというよりも、

・場の温度

・その場で許されている振る舞い

・暗黙の期待

などを察知する能力です。

これは社会生活では非常に高度で、日本人が国際的に評価される理由の一つでもあります。

一方で、サッカーの育成現場いおいてはデメリットとなってしまう可能性を僕は仮説として建ててみました。

日本人は空気を読む能力によって、場の空気を読み取り、それに応じて振る舞いを決める修正があります。つまり、空気を読むことに任せて言語化が疎かになっている部分があるかもしれません。

言語化がされていない=選択が難しい→自由ではない

というロジックから、僕がスペイン人のコーチから見た本能的な振る舞いは失われているのかもしれないと考えました。

判断基準が曖昧になる

また空気を読むことによって、なにをすれば正解かという選択よりも空気を乱さない選択をする傾向があると言えるかもしれません。

空気を読む文化の中では、

・強度の高いプレー

・予想外の選択

・失敗を伴うチャレンジ

は、「場を乱す行為」になりやすい。

だから選手は無意識に、

・無難なパス

・確率の高い選択

・コーチの視線を気にした判断

を選ぶようになります。

これは選手の積極的なチャレンジを阻害しかねないですし、こうした選択は判断力ではなく適応力に該当します。

日本人選手が文化的対応力が高い一方で、判断力や決断力が低いと評価される所以はここら辺にあるかもしれません。

コーチの役割認識の違い

日本のコーチ論|場の空気のコントロール

僕が日本で指導してもらったコーチ、日本で見てきたコーチから思うことは、日本で指導するにおいて重要になることが空気のコントロールです。
その人がいるだけで場がピリつく。
いわゆるこのような空気を生み出す力がコーチの能力とセットになっているように感じていました。(空気を緊張させることだけがいいのではなく、リラックスさせたり空気のコントロールができることを指します。)

日本ではベンチに座りただ黙々と試合を眺めるコーチを多く見てきました(もちろんそうでないコーチも多くいます)。これはきっと、空気のコントロールによる指導だったのかもしれません。

西洋のコーチ論|環境を設定し、主導する人

一方で、海外では日本のように黙々とコーチする人は見たことがありません。時には、日本人コーチよりも積極的にコーチングをとばし、選手に指示を出しながら指導する姿を多く見かけます。

このことから考えられることはスペインやイタリアのコーチは、

・環境をつくる

・基準を提示する

・主導権を握る

存在として振る舞うコーチとしての存在です。彼らは「空気に合わせる」のではなく、空気をつくる側として先導している姿が常にあります。

したがって、声量や立ち姿、距離やタイミング全てが空気を作るために道具として存在しています。その際に重要なキーとして存在するのが言語なのではないでしょうか。

隣接する国が違う言語や文化を持っていて、同じチーム内にも様々な文化背景を持つ選手が混在しやすい背景から、明確な言語によって一貫した基準を設定する必要があると考えます。

だからこそ、言語化が突き詰められていて、それによって
・どんなコーチでも
・どんな選手でも
・どんな国でも

方向性を統一しやすくする。
そしてその環境設定を主導する存在としてコーチがいるのではないでしょうか。

日本と西洋の決定的な違い:責任の所在

最後に一言で考察をまとめます。

空気や言語化、コーチ論の違いから日本と西洋には責任の所在が違いとして現れると考えます。

日本

判断の責任が「空気」「集団」「文脈」に分散する

西洋

判断の責任がコーチ(設計者)に集約される

だから西洋のコーチは、強く断定し、即座に修正し、迫力を持って振る舞うだと思います。

ここに僕がバルサキャンプ(スペインでプレーしてた時にも強烈に感じていました)で感じた、スペイン人コーチから感じた新鮮な違和感があったのだと思います。

▶︎ 優劣ではなく、前提構造の違いとして整理。

Glocal Footballとして

Glocal Footballとして ― 空気とことばを掛け合わせた育成環境

これまで日本と西洋の育成環境を見てきて感じるのは、それぞれに明確な特徴と強みがあるということです。

日本の育成環境は、相手や場の状況を感じ取り、空気を読む力に優れています。

一方で、西洋の育成環境では、考え方や基準が言語として明確に共有されています。

Glocal Footballが目指しているのは、どちらか一方を選ぶことではありません。

この二つの強みを掛け合わせた環境です。

バルサをそのままコピーしない理由

FC Barcelonaのメソッドは、西洋的な言語化が徹底された育成の代表例です。

しかしそのメソッドは、スペインという文化や前提があってこそ機能しています。

そのため、形だけをそのまま取り入れても、同じ効果は生まれません。

Glocalでは、「何をしているか」ではなく、なぜその考え方が必要なのかを学ぶことを大切にしています。

日本の「空気を読む力」を活かす

日本の育成文化には、選手同士の関係性や場の雰囲気を大切にする強みがあります。

Glocalではこの空気を感じ取る力を否定しません。むしろ、選手の状態や関係性を理解するうえで欠かせない要素だと考えています。

ただし、その判断を空気だけに委ねることはしません。

西洋の「言語化」を土台にする

育成において、何を大切にし、何を優先するのかが言葉として共有されていることは重要です。

Glocalでは、判断の基準や考え方をできるだけ言語化します。

それによって選手は、コーチの機嫌や雰囲気ではなく、理解に基づいてプレーできるようになります。そして、言語化は「再現性」と「共有可能性」の能力を育てます。

言語化は、選手を縛るためではなく、自由に判断するための土台です。

迫力は「感情」ではなく「設計」として使う

西洋のコーチたちから学んだ迫力は、感情的なものではありません。

環境を引き締め、集中を生むための手段です。

Glocalでは、その強度を常に高く保つのではなく、必要な場面で意図的に使います。

強度もまた、空気と同様に環境設計の一部だと考えています。

NZという環境に合わせた調整

ニュージーランドの育成環境では、日本ほど空気が支配的ではなく、西洋ほど言語化や強度が前提でもありません。西洋以上に異文化の背景を持った選手が集まりやすいのがニュージーランドです。

そのためGlocalでは、声の大きさや距離感を状況に応じて調整します。

日本の繊細さと、西洋の明確さをつなぐ中間的な立ち位置を意識しています。

空気とことばを掛け合わせる

Glocal Footballが目指すのは、空気を読む力と、言語化された基準が共存する環境です。

言語化によって、再現性と共有可能性を高め、判断力を高めます。

その上で、日本特有の空気を読む力を浸透させ、適応能力を高めます。

この二つが合わさることで、Glocal Footballの究極目標である「どこの国でも、どの環境でも活躍できる選手」が育つと考えます。

Globalをそのまま持ち込むのではなく、Localに合わせて翻訳する。

それが、Glocal Footballの考える育成環境です。

こういう環境をつくれるかどうか、まだ試行錯誤しています。

おわりに|育成に必要なのは。

以上が、僕がバルサキャンプを体験して感じた異文化コーチングからの考察です。

静かさ=優しさではない

厳しさ=怒りでもない

雰囲気や空気、言語やコミュニケーション、全てが複雑に絡み合っていてコーチングは成立します。

良い育成とはなんなのでしょうか。

答えは分からないままですが、いろんな国や文化を比較しながら探求を続けていきたいと思います。

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